3月3日の「小江戸川越名人会」は、落語の立川左平次兄と久々の共演。前座時代の修業の場、浅草での懐かしい話に花が咲いた。〝名人会〟というタイトルは気恥ずかしかったが、チラシは奇麗な出来栄えで、音響等が秀逸。お客様の反応も抜群で、演者として気持ちよく高座を終えた。まん延防止期間中であったが、開催にこぎ着けたのは、企画係・大脇雅代さんらスタッフの熱意の賜物。ここ二年ばかり、予定した公演が延期や中止になるたびに意気消沈。特に公共機関の催事は、後のゴタゴタを恐れ、すぐに中止が決断される。我ら個人事業の芸能実演家は、口約束による仕事の請け合いがほとんど。電話一本で切られ、補償は何もない。野垂れ死に覚悟の上での稼業なのだからと、言ってしまえばそれまでだが、人のスケジュールを押さえておいて、酷い話だとも思う。芸能家は、当日の演技以前に多くの仕込みが必要。依頼は基本的に先約が優先で、後の依頼を断っている場合もあるのだから、本来、スケジュールを押さえた時点で、幾ばくかのギャラが発生するというものなのだ。かかる状況下、開催の決断をされた皆さんには感謝申し上げたい。
この会は、ウェスタ川越の舞台担当、大川剛志さんのお声掛け。大川氏は元々、役者として長いキャリア。今回、司会進行役もして下さったが、客席での注意事項やコロナ対策等を、笑いを交えてサラリと伝え、お客様への愛情もあふれる司会ぶりが、際立っていた。師匠の宝井琴梅とは五十年近いお付き合い。作曲家・遠藤実先生の二十五周年リサイタルでは、琴梅が語りで、大川さんは若き遠藤実役。一鶴亡き後、私の身元を引き受け、門弟に加えてくれた師匠の琴梅。ちょうどその頃、大川氏の事務所から琴梅一門に仕事の依頼が。NHKが地上デジタル放送推進の為、ラジオ番組と連動して、各県でイベントを開催。そのキャラバン隊で「地デジ講談」を披露するというもの。以来、大川さんにはお仕事を頂くのみならず、琴梅・鶴遊師弟が各自創作した「遠藤実伝」を、前半生と後半生に分け、師弟で続けて口演する〝車読み〟親子会や、鶴遊の会へも度々ご夫妻でご来会頂いている。
地デジ講談で岩手県を訪れた際の会場は、陸前高田・道の駅だったが、辺り一帯は、東日本大震災の津波で流されてしまった。震災後まもなく、NHK厚生文化事業団の催しで初演をしたのが、岩手生まれで関東大震災の復興を推し進めた、後藤新平の伝記だった。
3月5日、NHK・ラジオ深夜便「話芸百選」で私の「後藤新平伝」が放送に。十年間、奥州水沢、名古屋、房州保田などの、新平ゆかりの地の方々と交流をしながら口演を重ねてきたが、ようやく一つの形として発表が叶った。アンカーは後藤繁榮アナで、話芸百選担当は遠藤ふき子アナ。学生時代に聞いていた深夜便への出演は光栄の至り。お二人に礼状を認めると、遠藤アナから返信が。後藤アナは翌週、鶴遊から便りがあったと、放送で触れて下さったと聞き、二度感激。驚いたのは録音技術。口演中、拍子木を叩きすぎてしまい、うるさい講談になってしまったのではないかと、収録後に一人、反省をしていたが、オンエアを聞くと、木で机を叩く音がまろやかに。深夜に聞き易い一席に変わっていたのには、救われた。神田松鯉先生の解説があり、講談自体は三十分でまとめなければならなかったが、結果的にスピード感のある一席に。ウンチクの羅列ではなく、物語として、演芸として面白く。お世話になった新平ゆかりの各地で得た取材の成果、新平の人情味ある人となり、日清戦争時の水際対策等、現代に参考となる逸話も盛り込みたいと、苦心した。
そんな後藤伝を長丁場で申し上げる機会が。3月31日、創立130年の歴史がある社交場「日本橋倶楽部」で。「月刊日本橋」堺美貴編集長のお声掛かり。同誌には、二ツ目の頃より様々な機会にお取り上げ頂き、日本橋界隈で出演の機会が広がった。コロナ以前に、何度も北海道巡業が出来のは、日本橋を中心とした鰻屋の集まりで、札幌の鰻屋「かど屋」さんとの出会いがきっかけ。堺さんを通じた日本橋のご縁は、私の財産となっている。倶楽部で約十年ぶりの講談会は、二度の延期を経て開催の運びに。終演後、倶楽部のバーで、かつてマッカーサーが好んだというカクテルをごちそうになり、ホッと一息。
4月2日・3日は、習志野在住の深川忠生さんが経営する、スカイルーム太陽で「本牧亭講談会」。後藤伝を前・後編の二日連続で。かつての講談定席上野本牧亭は、御茶ノ水の太陽で、灯をともし続けている。おそらくこの世界で、誰より講談を聞いてきたであろう方が、本牧亭のおかみさん。二日目がハネるとおかみさんから、「後藤新平って良い講談ね」と一言。これほどに、自信を与えてくれる言葉はない。亡き師匠一鶴が、「新作講談は認められにくいが、お客さんの喜ぶ様子を考えたら楽しい」と言っていた事を思い出した。
新平が鉄道院総裁に就任以来、幾度となく講演をした鉄道青年会は、政治家であり教育者であった江原素六が会長を務めた。貧しい幕臣の子として江戸に生まれた素六は、徳川宗家の静岡移住に伴い沼津へ。沼津兵学校の創設や、愛鷹山払い下げ運動など、地元の教育や政治に貢献、現在の沼津市の礎を築いた。5月15日に、素六翁生誕180年・没後100年を記念して、沼津駅北口広場に新たな銅像が設置され、その除幕式典で「江原素六伝」を伺う。式典後のパーティで口演の予定だったが、時節柄、飲食を伴う宴は延期に。江原先生顕彰会・土屋新一会長の計らいで、式典の中での一席に変更され、一安心。図書館や、旧素六邸が移築された明治史料館など、市内各所にある江原素六の関連資料をなるべくたくさん入手しようと、3月末に沼津を再訪した。すると、数日後に船橋市山野町会の皆さんが沼津市長を訪ねる予定と聞き、急遽、同席をさせて頂く事に。市川・船橋戦争の激戦、命からがら逃れた江原素六が、密かに身を寄せたのが山野村。幕府贔屓の村人に匿われて生き延びた。二年前、私が、素六の千葉
の足跡を訪ね歩いたという記事が、朝日新聞に掲載。それを見た山野町会幹部の方々が、「江原伝」を初演した上野広小路亭にご来場。その際、沼津の方と引き合わせた事が、今回の市長表敬に繋がったそうだ。150年の時を経て、素六を救った山野地区の子孫達が、ゆかりの地沼津を訪れたという話題は、地元紙に大きく掲載。山野町会は、今年6月に素六顕彰の会を企画、私の出番も作って下さるそうで、改めて、山野地区には勉強に伺わねばと考えている。
元幕内力士で相撲甚句の名手、大至さんから久しぶりの連絡が。大至さんは、大相撲が問題となった時期には、コメンテーターで各局にひっぱりだこ。「今年は鶴遊君と何かしたいね」と、嬉しいお誘い。5月28日、普段はアルゼンチンタンゴを上演する、タンゴソル日本橋で二人会を開いて下さる。自粛自粛のご時世なれど、感染対策を施して、何が何でも開催するという、主催者の強い意志さえあれば、催し物も行えるようになってきた。あとは、私が皆様のご期待にお応えするのみ。少し、元気がでてきた。
田辺鶴遊(たなべかくゆう)
講談師。名古屋生まれの静岡育ち。2歳から芸能活動。8歳で講談・田辺一鶴に師事。師匠没後は、一鶴の弟弟子にあたる宝井琴梅の門下に。平成27年真打昇進。朝日新聞千葉版の笑文芸欄「千葉笑い」選者。日本テレビ「ニュースエブリー」では特集のナレーションを不定期で担当。
<出演情報>全てのお問い合わせは…03-3681-9976(みのるプロ)
◎ 5月28日(土)16時半~「第一回大至・鶴遊の和ごころ塾」於・タンゴソル日本橋(地下鉄日本橋駅B1徒歩一分、日本橋高島屋本館向かい)木戸銭・3000円(1ドリンク付、飲み物持ち込み可)。
◎講談協会定席、6月16日夜・日本橋亭、6月23日昼・上野広小路亭。