いやいやそんなに甘く切ない感傷ではない。
和服を着、書を続け…というと「郷愁が募るか」「日本が恋しくなるか」と言われる。実はまるで違う心境。外国暮らしの基本は日々ストレスとの闘いだ。フジヤマ、ゲイシャの反応には辟ヘ キ易エキ。尤
もこれはお互い様でミュンヘンというと大概は「ビール!ソーセージ!オクトーバーフェスト♪」とくる。
着物姿を見て「オォ、ゲイシャ!」感激は伝わるけれど芸者さんに申し訳ない。無芸大食人畜有害を自認する私は披露する芸など持たない。
今ではどこでも買える寿司。20年ほど前まだ希少だった頃、デパートの食品コーナーで「寿司の作り方」をエンドレスビデオで流していた。コメに酢を入れ炊く。どう見てもドロドロの粥状の代物が次の画面で、フツーに炊き上がったご飯になり、そこへカリカリに焼いたベーコンを並べ…。この頃は全うになった。しかし、である。スーパーに買い物に行った息子が「大変だ!」と爆笑写メを送ってきた。「ツライ」寿司売ってる!食べるのも辛いほど不味いのか…?心当たりはある。日本のアニメ文化が世界を席巻して以来「日本学科」の人気が復活。日本への憧れは若年層ほど強くなった。それに伴い「ドイツ国産通訳翻訳者」が急増。これがまた問題。どんな形であれ翻訳を試みた人は分かるだろう。本当に背景、人情を知らないと不可能なのだ。
息子がネットで読んでいた日本の劇画。剣豪同士の決闘の場面。「なんという僥ギョウコウ倖、命など惜しくない。さぁ、やろうじゃないか!」と大刀を抜き嬉々として対タイ峙ジ。日本人ならツーカーの心情を「この野郎!」と訳していた。ヤロウ違い。ここでも人気のジブリのアニメ。私は子供達にドイツ語吹替えを見ることを禁じられている。「ママは絶対怒るから…それに全然意味が違ってるんだよ」と。
学校で「良い子の言語」を習得しても外国語の道は険しく遠い。私自身、大学で語学学校で「教科書のドイツ語」を学んだが実生活では余り使えない。怒り心頭に發す状態で「私はあなたに対して怒っています」なんて言ってられない。売られた喧嘩を買うにもデスマス丁寧では不戦敗だ。
事務局で「夏休みの子供講座」を打診された。マンガを題材にしたり、など実に気楽に提案してくる。漫画の翻訳は難しいよ、というと「姉が日本学科卒で翻訳をしてる」という。難しいでしょ?というと「いや、ちゃんと大学で学んだ」。それ以上いう気にはなれない。一人称だけでも性により年齢により社会的地位により違うんだよ、と言ったところで知らない人には理解不能だ。生涯を剣に捧げ好敵手を求め諸国放浪した剣客が「僕はあなたと闘いたいです。この野郎!では始めましょうか」という場面を想像して全身むず痒くなる。
着物は買ったけれど、という嘆きを受け「じゃ、講座のときに」というと丸めて紙袋に突っ込んで持ってくる。平気で洗濯機に入れてしまう。日本で「歌舞伎に招待され、いい機会」と得意気に送られた写真に川端康成の「屋上の金魚」という短編を思い出してしまった。失礼「瘋癲」という言葉が過ぎったよ。前は開け帯を昆布巻のように巻きつけた姿に偶然知り合ったという親切な日本人はどう反応したろうか。
年配の女性が「綻びていたから縫い閉じたわ!」と鼻息荒く宣う。聞いてみればなんと!身八つ口を閉じちゃった。呆然。「TSURAI」寿司にはドイツ語で「ピカント」と小さく添えてある。ピリッと辛めか。同じ漢字で読みが変われば意味が変わるんだよ。生兵法は怪我の元。
こういう体験が積もり積もると、見過ごしにするのは胃に悪い。日本語、書道、料理、思想と文化、着物…、複数分野で講座持っているのはあなただけ!とパンダ並みに珍重されるのは「辛い」痛感、止むに止まれぬ事情ゆえなのだ。