KIRACO(きらこ)

vol163 《マリア・カラスの呼び声》

2023年9月7日

独断独語独り言

マリアが呼んでいる、お早う私はここよ、と。
どこからかドミンゴの声が応える。あぁ、見守っているよ、と。
呼び交わす声は澄んだ空気を貫きまっすぐに飛び、心地良い。以心伝心、彼らに多くの言葉は要らない。

マリアとドミンゴは多分、夫婦。彼らの間に割り込もうなど、邪な気持ちは微塵もない。ただただ親しくなりたいだけなのだが、なかなか気を許してはくれない。時折こちらを見ているが、期待を込めて凝視め返すとつれなく、ふぃと横を向く。

彼らの習慣に合わせ、なるべく毎朝同じ頃、片思いを胸に秘め偶然を装いながら近づこうとする。思いが通じたらどれだけ嬉しいだろう。そのために彼らの言葉を学ぶことにした。日本語訛りの私の言葉で果たして通じるか。でも簡潔に、余計なことを言わなければ分かり合えるかもしれない。蛇足も藪蛇も、とにかく蛇は剣呑だ。

ひと声「かぁ」は挨拶。

ふた声「かぁかぁ」は空腹、注意喚起。

み声「かぁかぁかぁ」は満足したとき、自分の位置を知らせ、四〜六声は緊急事態。
成る程、覚えた。あとは怖じずに実践あるのみ。これぞ会話習得の王道。

煙突のカラス

親しくなりたいドミンゴとマリア・カラスの夫婦。実はどちらがどちらか見分けはつかない。いつ見ても、いつも一緒。

早朝、ベランダを東に西に往復移動しながら我が家の放蕩猫に朝帰りを促す。それから新聞を取り込み、次は順に朝食の支度。はじめに魚たち。池の縁石をプラスチックの計量カップで叩きカンカンと響かせると魚が集まる。おそらくこの音を覚えるのだろう、ふり仰ぐと頭上の電線には鳩、雀が小首を傾げて並んでいる。人を恐れぬ黒ツグミも待ち構える。期待に応えて餌を補充。

そしてトリを務めてマリア…か…ドミンゴが現れる。必ず一羽が隣家の屋根、煙突、電線辺りに止まりこちらの様子を伺う。ほぼ毎朝のことなので、お裾分けがあることを、いつのまにか学んだようだ。確かにこちらの姿を認めている様子。カラスは人間の性別も顔も認識し覚えると言う。とりあえず無害な存在と認めてもらえているようで嬉しい。朝の鳥は幸運の徴、太陽の化身。

煙突のカラス

先日、ベランダの花殻を摘みながら猫を呼んでいたら、屋根に一羽佇んでいるのが見えた。カラスの姿には佇むと言わせる趣がある。遠目にもどこか思慮深く、物思いに耽るように見える。八咫烏、導きの神。手始めにご挨拶をと「かぁ」の一声。
なんと、マリア…か、ドミンゴが「かぁかぁかぁ」と三声で応えてくれた。
嬉しさに思わず鳥肌がたつ。貢物を手に急ぐ。お腹空いた?私はここよ!とふた声、み声を控えめに繰り返しながら、胡桃の落ち葉を皿にしてキャットフードを置いてきた。

煙突のカラス

常に一羽が見張りに立つ。伴侶が舞い降り餌を啄む間、危険が無いか注意を払う。辛抱足りず覗き見するとすぐに飛び退く。が、遠くには行かず、餌場から三角形を描くように移動し、また舞い降りる。それで十分。挨拶に応えてくれただけでもう満足。今日の次には明日が来る。

星の王子さまに狐は言った。
─ 辛抱が大事だよ。最初は少し離れて…。おれはちょいちょい横目で見る。あんたは何も言わない。言葉っていうやつが、勘違いの元だからだよ ─。

確かに言葉は誤解も生む。しかし、以心伝心もまた幻想。一番大事な一言を、心を込めて神の使いに伝えたい。