KIRACO(きらこ)

vol163 やっぱり大須が面白い

2023年9月14日

一鶴遺産

7月1日から4日まで、名古屋・大須演芸場定席に出演した。自らの真打披露や、イベント、番組撮影などの貸席では何度もお邪魔していたが、定席への出演は、旧演芸場の閉館騒動があった平成26年1月の下席以来、九年ぶり。上方講談の旭堂南湖師と私が四日間、トリ(主任)と中トリを交互に務め、「大須で講談まつり開催」と、中日新聞にも取り上げられた。事前に、名古屋方面のお客様などにお便りを出したのが功を奏したか、期間中には、わかっているだけで50人以上の友人・知人・贔屓の方々が来場下さり、高座にはお花、楽屋は、楽屋見舞いのお菓子などでいっぱいに。生まれ故郷の懐かしい人たちとの再会に加え、大好きな大須の高座に帰ってこられた事に、感慨ひとしおだった。

私の、一番古いテレビ出演の映像で残っているのは、3歳の時に「大須大道町人まつり」で演じたバナナの叩き売りで、両親とも親交のあった地元タレントの水谷ミミさんがインタビューをしてくれた場面。子供の頃、このまつりには父親とともに毎年出演していたから、大須商店街を歩けば、町のそこかしこに思い出がある。亡き師匠の一鶴がこよなく愛した演芸場には、二ッ目になって間もなく、名古屋在住の浪曲師・天中軒雲月先生の紹介で出られるようになった。お客が一人でも来れば幕が開き、高座がある。貴重な勉強の場であったと同時に、終演後には、共演者やお客さんと杯を重ねるなど、刺激的で面白おかしい毎日だった。酒場で隣り合わせた人に「どこに出てるの?」「今、大須に出てます」と答えられる事が、定席を持たない講談師にとっては、何より嬉しかった。それだけに今回、新生演芸場の矢崎通也支配人から頂いた出演のご依頼に感激。支配人はじめスタッフは、皆さんとても親切で丁寧。お客様には毎日、出演者のプロフィール入り番組表も配られる。名古屋の7月は特に暑いが、演芸場の外に出て熱心な呼び込みに受付と、頭が下がる。かつての、ちょっと怖そうな演芸場の雰囲気は無く、どなたも入りやすい寄席に変わった。

旧大須演芸場では、東京・上方の出演者は、楽屋に寝泊まりをしていたものだが、今は、近くのホテルに泊まらせてもらえる。私が、演芸場に程近い「白龍旅館」に宿を取ったのは、昨年六月の広島取材の帰りに一泊し、畳の部屋が落ち着くと思ったから。どこか旧演芸場の楽屋に似た雰囲気の梅の間で、建物自体も昭和30年代には珍しい鉄筋コンクリート四階建て。大通りの向こうは白川公園で、かつてのアメリカ村。「この辺りは米兵も通う遊郭でした」と朝ご飯の時に、女将さんが教えてくれた。最終日の朝8時頃、矢崎支配人から「今日の主任の南湖先生が休演になりました。鶴遊さんが中トリとトリを・・」との電話。一部と二部があるわけだから、一日で四回の出番になる。名古屋在住の講談師が居ないわけではないが、鶴遊ならばと声を掛けてくださった支配人の気持ちが有り難く、講釈師冥利に尽きる思い、二つ返事でお引き受けをした。昔の大須では、同一人物が、名前と衣装を替え、違う芸で二度出てくる事がままあったが、新しい演芸場では、こんな事は初めてだという。前座の頃からお付き合いのある南湖兄の悔しさもわかるから、懸命に四席を読み終えたが、こうしたハプニングもまた、大須演芸場定席出演の醍醐味なのだ。

翌7月5日、名古屋時代の後藤新平を顕彰する団体の発足記念の集いで、新平伝を一時間披露。新平は、大須界隈で医師として研鑽を積んだ。参加者は、老舗料亭・蔦茂の深田正雄会長をはじめ政財界の実力者がズラリ。9日付けの中日新聞県内版トップ記事で、私が口演中の写真もカラーで大きく掲載された。お開きとなり、お見送りがてら皆様に挨拶をしていると一人のご婦人が、「私の親戚に講談師がいてね」「そうですか」「その子の父親が実さんで、母親が桂子で」「え?その講談師って僕の事では?お名前は?」「髙田です、やっぱりそうなの?あなた、姿形も芸名も昔と違うけど、もしかしてと思って・・」母方の伯母様だった。数十年ぶりの偶然の再会にびっくり。髙田弘子さんは、79歳の今もまちづくり研究の第一人者として現役。栄の真ん中に事務所を開き、大須の街作りにも関わったという。伯母様の父親が、私の祖父の兄に当たる。徳川町のご自宅(徳川園の隣)には、子供の頃に何度も伺った記憶があるが、母方の髙田家の歴史はあまり聞いた事が無い。伯母様の話は、地域の歴史とも重なり興味深い。改めてお話を伺いたいと思っている。

帰京後の7月27日には、上野広小路亭講談会で主任。演題は「星野勘左衛門」。大須三丁目の三輪神社境内の尾張藩の矢場は、京都・三十三間堂の通し矢で天下一となった勘左衛門が預かり、矢場町という地名の由来に。また一つ、大須ゆかりの読み物が増えた。