三人きょうだいそれぞれが揃えてもらった中で、就学前初めて「わたしの」と与えられた全集はグリム童話全13巻だった。一巻ずつ挿絵画家が違い、それも魅力で暗記するほど繰り返し読んだ。グリム童話の次はデンマークの詩人、アンデルセン童話集。どちらもドイツへの引越し荷物に入れた。夥しい蔵書のどれを手元に置きたいか、それはかなり難しい選択問題だった。が、アンデルセンは実はグリム童話ほど熱心に読んだ記憶がない。何故だろう。そもそもこちらは母が母のために購入した感がある。布装丁で各巻違う色。背表紙が並ぶだけでも美しかった。文字も小さく、容赦なく漢字表記が多かった。さらになんと監修=川端康成、翻訳=山室静という超豪華メンバーだった。しかし本に対しての評価にそれらの要素を入れるのは大人の目だ。
アンデルセンはとにかく暗い。体験に裏付けられた名作…と言われるが、己の失恋の経験をこうもズルズル引きずり続けては子供にも、ましてや女性には敬遠されるだろうに。それでも眼を瞠るような思いを抱いた物語があった。「みんなその正しい持ち場に」というタイトルだった。子供の理解力で読み、印象に残った部分だけが結晶し、それはいつしか原作を離れてほぼ「わたしの」創作になっていった。
私バージョン『不思議な角笛を吹くと、その音は旋風のように世界に吹き荒れ、あらゆるものを吹き飛ばす。あるところに専横な王様がいた。その娘、美しい姫が貧しいけれど心正しい豚飼いの若者に恋をした。怒った王様は若者を捕える命令を出す前触れに角笛を吹かせる。その途端、竜巻のような風が起こり、みんなその正しい持ち場に!という天の声が響き渡り、あらゆるものを吹き飛ばし、全てを本来あるべきところへ運んでいった。暴君の王様は豚小屋へ、正しい若者は玉座へ、純な姫はその隣の王妃の座へ、老いたロバを殴りつけた親方は荷馬車に繋れ…。』
アンデルセンには「人魚姫」、「マッチ売りの少女」など全世界で有名な童話がいくつもある。けれどこの「正しい持ち場に」は子供の心の奥底深く、一粒の種を秘かに埋めた。
コロナ禍に次ぐロシアのウクライナ侵攻。ほぼ4年、帰国もままならなかった。無人の家は寂しく傷む。親の家ではなくなった家屋にあるものを少しでも片付けなければ。記憶の底で眠り続けた種が目を覚まし、沼の水面で弾ける気泡のように浮かび上がってきた。
─みんなその正しい持ち場に─
モノはすべて、価値を認めそれを活かしてくれるところにあってこそ、と思う。
着物を着るようになったのも、母の、祖母の着物を生かし続けたいと思ったからだ。思いのあるものだけあればいい。他は望まれ、活躍できる正しい持ち場にいくべきだろう。地震のたびに心配していた石膏の胸像。その完全な美を愛したが、ドイツに持っていくことはできない。彼女たちの最高の嫁入り先を考えるのは、最後の私の役目だ。曽祖父が愛でた書の巨星の軸。書に興味のない人間には高名も無名もない。あれもこれも、不思議なことにモノを静かに眺めていると、声が聴こえてくる。行く先はあちら…と。その無音の角笛の声に従い私は彼らを託していく。後ろ髪を引かれなければ、行かせることはできない。思いを残せるほどのモノでなければ、託せない。
モノが場を選ぶ、それが本当の正しい持ち場なのだろう。
ところで、気になるこの物語を半世紀以上も経てからもう一度読んで見た。まるで違うじゃない。やっぱりアンデルセンは恨み辛み泣き言の詩人だった。
私は私バージョンが気に入っている。思いにも、それを表す正しい言葉が必要なのだ。