「じいちゃんが昔台北の、ど真ん中に建てたという鉄筋コンクリートの家、今度の正月休みに見に行ってこようかなあ」
半分、独り言のように言う息子の言葉に私はビックリ‼
もうずっと以前から
「一度は見ておいて頂戴ね。今から85年も前に建てたというのに、未だに壊されもせず、目抜き通りで背伸びしながら頑張ってるおじいちゃんの家、まだ残されてるうちに」以前からの親子の話題でした。
今年のお正月は、なんと半月近くもの休暇が取れたらしいのです。どこか旅行にでも…と考え、ふと思いついたのかもしれません。
日清戦争が終わって、台湾は日本の統治下に置かれることになり、その後太平洋戦争の終結までのちょうど50年間。
父はそのうちの35年間を台湾で過ごしました。
《敗戦》にさえならなければ台湾に永住するつもりでいたのです。
私たち家族も皆そうでした。
家を建てた当時、《竣工は1938年、私が小学校に上がった年でした》台北市では、大々的な都市計画が進められ、道路の幅も《片側3車線》という広い通りが作られていたのです。
現在は《中山北路》と呼ばれていますが、台北駅からあの有名な円山飯店へと続くメイン道路。
昔はその辺は大正町とか、御成町とか呼ばれていました。
《御成》というのがこれまた、古い言葉で、お偉いさんが行ったり来たりする…、そんな意味を持った言葉なのです。
余談ですが昭和天皇がまだ皇太子でいらした頃、台湾においでになったことがあるらしいのです。その頃は、父も母もまだ若くて、母は赤ん坊をお手伝いさんに預けたまま、素敵な皇太子様の追っかけに夢中になっていたそうです。
後年になってからも父はブリブリしながらよくその時の話をしていました。なんだかホンワカしてて、幾度も聞かされているはずなのに、その都度大げさに笑ってみせるのでした。
懐かしい台湾!
でも次に発した息子の言葉にこれまたびっくり仰天!の私でした。
「よかったら連れてってあげるよ」
「へーえー!ほんとに?」
驚いたのと、嬉しいのとで、頭の中はクルクル回転。
それまでは3年に1回の現地での同窓会にもずっと出席していたのです。そう、コロナが幅をきかすまでは。
そうしていつしか五年の月日が流れてしまいました。
(もう二度と台湾の土を踏むことはないんだろうな…。)
ずっとそう諦めていたのです。
えっ!?私また台湾にいけるんだ!
さあ、それからが大変!
これが最後…と思うと、優先順位は選びようもなく、いろんなことが思い浮かんできます。
そう、《14歳の夏》にも書いた、特攻隊のお兄さん達が出撃したギランと言う地に、まだ当時の格納庫や滑走路の一部が残っているという。そこにはどうしても行っておこう!
その辺りの詳しいことが知りたくて、いつも台湾でお世話になっている執筆家の方と、ジャーナリストの女性にメールしてみました。
「せっかくなら、逆さ歌のライブやってみませんか?」
という、嬉しいお誘い。しかも、講演会もセッティングしますよ。という嬉しいお声掛けです!
俄然忙しくなってきました。
逆さ歌のライブをするためには、キーボードも背負っていかなくてはなりません。
体力的にも大変なことは分かっていますが、もう、嬉しさだけが先に立って着々と準備を進めました。
そして当日。
飛行機の中でうとうとしていたら、息子が
「台湾だよ。もうそろそろ着陸だよ」
ふと窓の下を見ると、緑の樹々の間に、畑が広がって…。眩しい光の中で静かに息づいています。
今まで何度も台湾へ来ていたはずなのに、ずっと団体旅行だったせいか、時間を気にしたりして風景に見とれるということがなかった〜
なぜか涙している自分に気づきました。
私はここで生まれたのだ。
ここが私の故郷!
ただいま!大好きな台湾〜
(つづく)