KIRACO(きらこ)

Vol167 生まれ故郷台湾《その二》

2024年6月13日

中田芳子さんのエッセイが読めるのはKIRACOだけ

コロナを挟んで五年振りに訪れた生まれ故郷、台湾台北市。

高齢の私にとっては、多分これが最後の機会になるだろう…そんな思いが先走って、どうしても行っておきたい場所、逢いたい友人、が次々とひしめくように浮かび上がってくるのでした。

前号にも書きましたが、戦時中台湾から出撃した特攻隊員、そのうちの幾組かが飛び立った飛行場が今も残されていて、当時の格納庫などが今も建っている《宜蘭空港》。そこにはどうしても行ってみたかったし、 今も昔のまま使われているという女学校にも!

当然八十五年前に父の建てた家にも、子供唱歌隊の隊員として毎週歌っていた台北放送局にも!という欲張り気味の旅だったのです。

しかもなんとその最後に、《淡水の落日》を見てみたい!…という、ロマンティックな、贅沢な願いが私に残されていたのでした。

台湾通の方ならご存じと思いますが、淡水から見る太平洋の入日の美しさ、神秘的なその光景は余りにも有名です。

しかも《落日の瞬間を一緒に見たカップルは、絶対幸せになれる》という古い言い伝えがあるのだそうで、天気の良い週末の海辺は若い二人連れで大賑いだというのです。

台湾で生まれ育ったというのに、一度もその瞬間に居合わせたことのなかった私。

実は数年前、台湾の友人に誘われて、落日の瞬間目指してこの地に来たことがあったのですが、数分の差でその貴重な一瞬を逸してしまったのでした。

しきりに謝る彼女。

実はその女性、戦後台湾を震撼させたあの《二二八事件》で、お父上を失った方なのですが、《消えた父を探して》という本も出版され、日本での講演にも力を注いで来られた女闘士なのでした。

残念な事に数年前に他界なさったのですが、私にとっては実の姉以上の存在。

三歳年下の私を「芳子ちゃん」と呼んで可愛がって下さり、その毅然たる生き様は私の人生の後半を律して余りある、そんな女性でした。

ですから今回どうしても彼女との思い出の場に立ちたい、その思いはいやが上にも私の中で膨らんでいたのです。

実はその翌日に、今回の旅のメインイベントとも言うべき講演と、お得意の?《逆さ歌ライブ》を控えていたので、その準備も兼ねてホテルで休養を取らなくては…と、もう一人の私がたしなめるのですが、この機会を逸したら?と思うと、もはやそれは論外なことなのでした。

幸いなことにその場までクルマを出して下さる方がいて、遂に念願成就!息を呑むような美しい落日を、同道した息子共々見る事が出来たのです。

それはもう自ずからその場に跪いて祈りたくなるほどの敬虔な光景でした。

驚いたことに、今まであんなに台湾に対して無関心でいた息子でしたのに、その頃には、まるで人が変わったような変貌振り。

その前日にも「基隆の海が見たい!」と言い出して一人でタクシーを拾い、あちこち巡って来たという変わりようです。

「俺、台湾に来て一度も不愉快な思いをした事なかった。基隆でも若い学生さんが色々親切に道案内までしてくれてね。帰りに食べた夕食も最高に旨かったし」

そう、息子は完全に台湾にハマってしまったようなのです。何たっておフクロの生まれ故郷です。DNAが黙っていようはずはありません。

父の建てたその店は日本風の和食のレストランとして大繁盛していました。

直ぐ近くには名だたるホテルも立ち並ぶというのに、八十五年もの歳月、よくぞ取り壊すことも無く残しておいて下さった!それはもう《感謝》の一言あるのみです。

これから先も孫や曾孫たちにとってはおじいちゃんに会える貴重な場所となってくれることでしょう。

台湾の地に渡って三十年間ひたすら働き続け、ようやく建てた父のマイホームでした。それが敗戦によってそれこそビタ一文の保証もなく棲家を追われる事に…。父はその後ただの一度も台湾の土を踏むことなく失意のうちに七十一歳でこの世を去りました。

そうした家族のルーツを巡る旅。今まで殆ど無関心だった息子でしたが、今回の旅行で得た貴重な体験はこの先の彼の生き様にも大きく影響を及ぼし続けるに違いありません。