KIRACO(きらこ)

浅草の二人の恩人

2025年1月9日

一鶴遺産

前座の頃、浅草演芸ホール上の東洋館の特別興行で、月に何度も出番を貰えるようになった。支配人は、楽屋でお茶を出したり、着物を畳んだりというような前座仕事はしなくてよいという。一人の出演者としてチラシに名前が載ったのは嬉しかった。亡き師匠一鶴は頻繁に出演したが、基本的に講談・落語以外の色物の芸が多く、ベテランから、テレビのネタ番組の常連や演歌歌手など、あらゆる芸の見本市のような寄席で、芸を競い合った。

東洋館の帰りにひと息ついたのが「珈琲天国」。店主の上野留美さんは明るい人柄で、閉店後も仲間が集まりアットホームな飲み会に。毎度、ごちそうになるなどお世話になった。SNS映えする可愛いらしいお店ゆえ、今では若者や外国人客が殺到する繁盛店に。この浅草の天国で出会った人たちが、私の修業時代の大きな支えになって下さった。

朝日新聞の小泉信一記者は、北海道の支局長時代、浜頓別出身の留美さんを取材。天国に顔を出すようになったという。365日酒場を訪ね歩き、昔ながらの芸人や旅役者など、市井に生きる人々を記事にして、「男はつらいよ」関連の著書も多数。寅さんに一番詳しい記者としてテレビ出演する事もあった下町の名物記者。「社長直属の大衆文化担当はオレ一人だけなんだよ」と誇らしげに名刺を下さった時の事を思い出す。天国に一番近いバー「銀幕ロック」で、まだ前座だからと内緒で開いた初めての勉強会や、東洋館で開催した「二ッ目昇進披露講談会」にも「演芸史に残る会になるかも」と駆けつけてくれた。

小泉さんが私を初めて記事にしてくれたのは、私が三十歳の年。作曲家・遠藤実先生が亡くなった後、新作「遠藤実物語」を発表。「遠藤先生に感謝の講談」とカラーで掲載。調子にのった私は、国立演芸場で開いた文化庁芸術祭参加公演の事を、「300席の大きな会場だから、集客に繋がればありがたい」と、紙面に書いてくれるよう小泉さんに頼んだが、「君はオレの記事を読んでるのか、オレの分野と何の関係があるんだ」と断られてしまった。するとその後、元NHKアナの故生方恵一氏を対談ゲストに、紅白歌合戦の歴史を講談にするという会を企画した際、生方先生から、「小泉という記者が昨日ウチを訪ねて来たけど、君の知人かね?」というお電話が。今度は、頼んでもいないのに取材に行き、記事にしてくれて、満席になったという事もあった。小泉さんは、真打披露宴にも出席。「君のことを最初に書いたのはオレだよな」と赤ら顔、上機嫌で話しかけてもくれた。

私が、歌謡ショウの司会を務めていた浅草ROXまつり湯の宴会場。ここで紹介をされたのが、小泉さんの親友で元八王子市議会議員の尾崎正道さんだった。一昨年、十数年ぶりに浅草で再会すると、「私の遠い親戚にあたるのが憲政の父・尾崎咢堂。講談にしてみないか」というご提案。咢堂が東京市長時代、自ら水源林調査に訪れた山梨県丹波山村で講談会開催が決まると昨年の5月、札幌巡業中の私の携帯に一件の着信が。見ると小泉さんからで「北海道か、いいなあ。オレはもう行けないな、体が痛くて動けないから電話で聞かせてよ。咢堂は神奈川県津久井の生まれ、今横浜総局だから記事に出来るよ」という。7月5日神奈川県版朝刊に、「尾崎行雄の生涯を新作講談で描く」と掲載。この記事は、頼んでも書いてはくれない小泉さんが書いてくれた、私にとっては最後の記事となった。10月5日、小泉さんは前立腺がんで死去。記事のおかげか、会場の丹波山村役場には問い合わせが相次ぎ、10月12日の「尾崎咢堂伝」初演講談会は盛会で幕を閉じた。

私の真打披露宴は浅草ビューホテル飛翔の間だったが、出席者がまず驚いてくれたのが、入場時の生のバンド演奏。岡宏とクリアトーンズをバックに、渡辺真知子さん、アントニオ古賀さんらが熱唱した。余興で歌謡ショウを企画したのは、子供の頃から舞台袖で耳にしていたクリアトーンズの音を、客に聞いて欲しいと思ったから。中野サンプラザの「クリアトーンズ33周年公演」では、講談「岡宏物語」を口演。創作の為、新宿二丁目の岡先生の事務所へ。質問攻めで資料を求めると、「君はマルサみたいだ」と言われた事も懐かしい。『歌の手帖』の連載「バンマス岡宏のうしろ姿のおつきあい」では、歌手でないにも関わらず私を取り上げて下さった。晩年は歌手としても活躍した岡先生だが、11月8日にお亡くなりになった。「いつも頑張っていて偉い」と会う度に声を掛けて頂いた事が日々の励みになった。そういえば岡先生も、浅草は三味線堀の生まれ。昨年は、浅草でお世話になった二人が天国へと旅立ったが、私は今も多くの浅草の皆さんに支えられている。令和七年の今年は、久々に浅草で会を開いてみようと思う。

田辺鶴遊(たなべかくゆう)
名古屋生まれ静岡育ちの講談師。2歳から芸能活動。7歳、浅草・木馬亭で東京初舞台。ゲストは浅草在住でひいおじいちゃんと慕っていた坂野比呂志師。坂野師の薦めで同年、日本司会芸能協会発足時に入会。8歳でヒゲの講談師・田辺一鶴に師事。翌年、上野・本牧亭で「田辺チビ鶴」として初高座。東海大院中退後、講談協会にて前座修業。平成21年、師匠没後は宝井琴梅門下。同27年真打昇進し、鶴遊を襲名。「後藤新平」「江原素六」「尾崎行雄」など明治以降の創作人物伝が得意で最新作は「中勘助」。朝日新聞千葉版笑文芸投稿欄「千葉笑い」選者。日テレnews every.特集ナレーションも長年担当。