KIRACO(きらこ)

勝手のカズの80 年

2025年9月25日

湊町暮らし

 戦後80年、80年前6歳だった。疎開先祖母の実家で玉音放送を聞いた。とにかく戦争が終わったので我が家に帰る母と弟と私の三人だった。その時母の仕事は父の帰りをひたすら待つ事だった。中国大陸の北支に出征していた父の消息を尋ねて毎日午前中は稲毛の鉄道連隊跡に発表される帰還者名簿の確認だった。生活費は父が出征前に母に残した預貯金で情況はハイパーインフレの真只中、今日5円の映画館の入場料が一週間後は10円に、またまた一週間後には15円に、預貯金を使い果たす前に父が無事元気で帰った。幸いにも真鰯の大群が待っていた。帰還した翌日から鰯漁に船をこぎ出した。真鰯の刺網「こざらし網漁」だ。鰯は飛ぶ様に売れた。戦争で紙幣が焼かれたのか大量の新紙幣が刷られ旧紙幣は収入印紙を貼らないと使用不能になった。折りしも食糧難で国の配給だけでは生きられず闇物資を求めて漁らなければその日を越せなかった。その後も物不足は続いた。当時の食糧戦略、タンパク源の供給は畑や餌のいらない捕鯨だった。一頭で牛数頭〜数10頭分賄えた。国はGHQの支配下で自由な活動が制限されたが独立の為吉田内閣は1951年サンフランシスコ講和条約、日米安保条約を成立し今日の形に。経済では米軍に完膚無きまでに破壊された日本列島の全ての物が0と化し立て直しを計る為に軍備は持たず経済一筋で立国する事を肝に銘じ今日まで歩んで来たが経済大国と言われるまでに成っても米軍にすがり国を運営、国民もその中にとっぷり浸り自立の精神が問われていた。

 今日世界は中国の急速な経済的台頭、合せて巨大な軍事力の保持、これは鄧小平の強かな戦略、改革開放に依る国家資本主義に因って経済大国に、それは米国の知的財産を思うまま侵害した結果だ。その米国の被害額は日経新聞によると年33兆2000億円~88兆6000億円の試算。その上中国の補助金政策に対処出来ず米国内の製造業が空洞化を招きトランプ現象が物議を醸すことに。

 我が国に向けられたトランプ関税が一応決着、参議院の選挙が行われ争点は戦後と同じ様に食糧の物価高対策で、各党の主張は、現金を配る、食糧品に掛る消費税を軽減、又は無くすというものだった。

 今世界を俯瞰する時無理難題が山積している。国を挙げて議論する時、食糧問題だけでは戦後と変わり無い。日本国をリードする政治がこれでいいのか疑問を抱くのだが。問題を列挙すれば。景気を良くするには。ウクライナの様に攻められない国の構えは。資源や人材は。科学技術は。医療は。人工衛星や宇宙開発は。安全保障は。具体的には台湾有事の備え。国民の安全を守るシェルターの建設。日本は山又山の島でトンネルの数や長さは他国より多いと聞く。そのトンネルを避難場に出来ないか道筋とか住環境の条件とか考えられないだろうか。金をバラマク余裕が有れば個々の力が及ばない分野を世界に先掛けて国が荷うシンクタンクが必要と考えるが。

旬の味

 海賊のメンバーはユニークな御人が多い。漁師の漁労シーンを撮影に訪れた女性カメラマンは利根川の辺、我孫子市から鉄火巻や鮪鮨等携えて殆ど毎週見える。法務省で日本の為に情熱を傾ける若者は米国加州ワイン持参で顔を出す。上場企業の食品会社の御曹子、社の食肉の仕入の為に米国でカウボーイとして働いていた経歴が。彼の癖は仕事の話が全てで酒の肴にならない。体育大学卒で数10年間毎朝5㎞のジョギングを今も続けているスキーヤー、酒が入ると寡黙になる。船橋の街は江戸時代から成田詣の途中宿で盛場として賑わった所、今もJR船橋駅付近に面影が有る、そこの経営者の面々も隙間を作って遊びに来る従業員が一緒の時も。平和過ぎる海賊船だ。

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