サンアントニオ
「新型コロナ」。その魔の手は今や日本全土を覆い尽くす勢いです。そして地球上のいずれの国をも~。
先日テレビを見ていたら、アメリカでの凄まじい現状が映し出されていました。テキサス州のサンアントニオという街で、コロナで亡くなった遺体を運び出すのに、その余りの膨大な数に、もはや霊柩車では事足りず、普通のトラックを使用しているというのです。
「サンアントニオ!」私の目は釘付けになってしまいました。
そこは私が七十歳になる少し前、たった一人で冒険旅行をした、懐かしい街なのです。
以前この誌上にもフィレンツェへの旅のことを書かせて頂いたことがありましたが、私は自分が(行きたい!)と思うと、思った途端それは即《旅の始まり》なのです。
もともと生まれ育ったのが台湾・・・。
海を超えることになんの抵抗も感じないのはそんなことも影響しているかもしれません。
サンアントニオ・・・。それはとても一言では表現出来ない雰囲気を持つ、エキゾチックな街でした。
それもその筈、もともとはスペイン領で、激しい攻防戦の末、アメリカのものになった街なのです。
西部劇の好きな方ならきっと「アラモの砦」という映画をご存じと思いますが、その砦は実は「アラモ聖堂」という美しい教会だったのでした。
サンアントニオ郊外にあるそこを拠点に戦いは繰り広げられたのです。実弾に破壊された壁もそのまま残されていました。
その外にも「リバーサイドウォーク」といって、街の中を綺麗な運河が流れ、その両側にどこまでも続く可愛らしい小径があり、まるで不思議の国のアリスにでもなった気分で歩きたくなる、そんなメルヘンチックな街なのでした。
さて、ここからが本題・・・なのですが。何故テキサスなんぞへ飛んでみようという気になったのか?その発端とは?
当時、私は英会話に凝っていて、二箇所のサークルに席を置き、結構熱をいれて取り組んでいました。無論どこへ行っても最年長。少しくらい恥を掻いても許されるし、やる気満々の日々だったのです。
そんなある日、所用で東京駅に出向き、ちょうどお昼時だったので大丸デパートのお蕎麦屋さんに入りました。
大して混んでもいなかったので大きめのテーブルに一人で座りました。その内だんだん客足も増え、相席してきたのが一人のアメリカ人らしき紳士と、連れの日本人の女性です。真正面に座った紳士が挨拶のつもりでしょう、ニコニコしながら「帽子、よくお似合いですね」と声をかけてきました。
私はその英語がちゃんと聞き取れたことがとても嬉しかったし、英会話を習っていてもなかなか本場の人と会話する機会はありませんでしたので、自分でも驚くくらい盛り上がったのです。
聞けば、テキサスから来たミネラル・ウォーター会社の社長さん。自社製品を日本の市場に売り込みにきたのだとか。
別れ際、彼はカメラを向けて、その女性と私、二人並んだ写真を撮ってくれました。「アメリカに帰ったら写真、送りますよ」。勿論私は快く住所を書いて渡しました。
半月程を経て、分厚い封筒が届きました。写真とともに送られてきたのはなんと「是非、サンアントニオ観光にお出かけください。家族共々お待ちしています」という招待状。
早速息子に見せると
「若しおふくろが自分でホテルを探し、自力でテキサスまで行ったら、オレ一生尊敬するけどなあ・・・」
その一言で火がついたのでした。
最後に笑えるおまけ話を一つ。
帰国後、初めての英会話の日、この旅行のことを仲間に報告した時のこと、某夫人が呆れたように発した一言
「まあ、ナカダさん、そのヒトって、ゆきずり4 4 4 4 の外人さんなのでしょう?」
これには正直ブッ飛んでしまいました。(なるほどなあーそういうふうな見方というか考え方をする人もいるってことなんだなあー)。考えてみればやはり私は外地で生まれた人間、思考が少々ずれていて当然かもしれません。
ともあれ時を経て、今、コロナで苦しんでいるサンアントニオの現状を思い、更には自由に世界中何処へでも行けたあの日々の素晴らしさを改めて噛み締めているナカダなのです。