5月6日、霞が関・イイノホールで開催の「夢空間講談会」に出演。ここは、NHK講談大会なども開かれる会場で、前座の頃には、亡き師匠・一鶴の鞄持ちとして何度も楽屋にお供した。すっかり改装されたが、師匠が地下の喫茶店で、出番の直前まで必死にネタをさらっていた事を思い出す。私の演題は、大師匠・十二代目田辺南鶴作「曲馬団の女」。南鶴先生は、釈界のアイディアマンと呼ばれた人で、探偵ものなど、今でも読み継がれる創作講談を数多く残した。一鶴が新作派に転向したのは、南鶴先生の影響が大きい。
4月の終わり、本誌159号でも書いた、信州飯田の郷土講談師・竹村浪の人(なみのひと)の足跡を辿った。浪の人は、飯田をはじめ伊那地方の講談を中心に二百本近くを創作し、著書も多い。南鶴先生は、昭和28年から、上野の講談定席・本牧亭で、素人向けの講談教室「講談学校」を開いたが、探偵作家クラブにも所属しただけあって、生徒には、山岡荘八、江戸川乱歩といった錚々たる顔ぶれも名を連ねた。西ヶ原の自宅も稽古場になった。亡き師匠は、吃音矯正の目的で生徒になり、同29年、前座修業に入る際、一鶴と名付けられた。浪の人も、元は講談学校の生徒。自作の「菱田春章伝」を披露すると、出来栄えに驚いた南鶴先生、「私にもやらせてくれませんか」と一言。浪の人は、「師匠の立場にある人が、素人の弟子に言える言葉ではない」と南鶴を尊敬した。その創作力と話芸、情熱を認めた南鶴は、昭和32年に浪の人を田辺派に加え、プロの高座、本牧亭定席にも出演出来るようになった。
浪の人は、明治25年4月24日、飯田の梅南小路で小商いをしていた両親のもと、次男坊として産声をあげた。「少年世界」等の少年誌で小説に興味を持ち、文豪を夢見て15才で上京。弟子入り志願をした大町桂月に「文士は儲からん、商人になれ」と諭され、木綿問屋に八年間奉公。25才で日本橋に竹村商店を開き、ゴム製品を扱い商才を発揮。株で大儲けをしたが、関東大震災で資産を失い、鉱山業で盛り返しを図るなど波乱の半生。昭和19年12月には、西ヶ原二丁目の借家が空襲に遭い、翌年4月に53才で四十年ぶりに故郷の飯田へ。隣村の上郷の小林孤燈方二階に身を寄せた。孤燈は、地元の南信新聞記者として活躍。「孤燈は、小説や戯曲も書いた。文筆活動で生涯を全うした二人は歳も近く、気が合ったのでしょう」と教えて下さったのは、孤燈のご子息で、元飯田市教育長の小林恭之助先生。ご高齢だが、「浪の人の顕彰になるならば」と、ご自宅で話を聞く機会を頂いた。浪の人の兄の妻は、孤燈の母とは姉妹だった。「君は声が良い。講談でもやったらどうだ」という孤燈の助言が、浪の人をその気にさせた。敗戦で希望を失った飯田の人を元気づけんと、郷里の昔の姿を後世に伝える、郷土講談の創作が始まった。
市内には、浪の人ゆかりの場所がそこかしこにあり、講談の題材にした菱田春章の生家跡や力士男山の墓地などを訪ね歩いた。明治20年創業の満津田食堂は浪の人の生家のすぐ近く。昭和47年5月21日の「信州日報」は、80才になった浪の人を一面トップで取り上げていて、浪の人は半年ほど、この店の角で辻講釈をしていたとある。今の女将さんは知らないとの事だったが、この店で食べた郷土料理は、馬刺しに季節の竹の子など、どれも絶品だった。
「観光の飯田」は、飯田のPRの為に浪の人が発行したミニ新聞。毎号広告を掲載していた砂払温泉は、元祖五平餅の宿。宿泊して原田雅弘社長に話を聞いたが、やはり何もご存じでなく、「亡き父・充朗の世代では?」と言う。昭和23年、浪の人は白山神社の宮守に応募、社務所に住まいを移す。浪の人が愛した風越山の麓にあり、飯田の市街を見渡せるこの場所が終の棲家となった。境内の片隅にひっそりと建つ「竹村浪の人碑」は、昭和52年、浪の人の三回忌に、郷土史家の村沢武夫氏らが発起人となり建立。浪の人の母校、現在の飯田市立追手町小学校の向かいの中央図書館には、浪の人の蔵書や講談原稿、音源から成る「浪の人文庫」がある。司書の関口真紀先生は市制七十周年事業で浪の人の展示会を担当、今回お世話になった。村沢氏がスクラップした、浪の人の新聞連載や台本もいくつかコピーして頂いたが、石碑建立の際の綴り、寄付者の芳名帳には、小林恭之助、原田充朗の名があり、飯田出身の落語家・橘家竹蔵師匠の署名も見つけた。私は、竹蔵師匠には公私ともにお世話になっているが、師匠は、浪の人先生を同郷の恩人と慕っている。
南鶴先生も読んだ「菱田春章伝」は、いつか演じてみたいとは思うが、その際には、新たな春章伝を作るつもりで挑みたい。それが創作講談の系譜、田辺派の矜持だ。東京北区西ヶ原は一鶴の出生地。西ヶ原に住んでいた南鶴と浪の人。三人の共通点もまた興味深い。