KIRACO(きらこ)

まだ若かった頃、と言っても、もはや九十代の私のことですから多分還暦過ぎ…くらいだったと思いますが、ふと《この先私は新しい友達をどれくらい作れるのだろう、恐らく今までのようには増えることはあるまい》

そんなことを考えたことがありました。

その頃は、年賀状も家族あてのを除いて、私個人に届くのが四百枚越え!

まあそれは儀礼的なのも含まれていましたから《友達》と言えたかどうかは定かではありませんが、とにかく気の合う仲間とのお付き合いは当時の私にとって何よりの愉しみなのでした。

若い頃の私といえば、その座を何とかして盛り上げなきゃとか、今思えばやたらとアクティブな、そしてサービス精神旺盛な私だったのです。

よく、《八方美人!》と姉達からも揶揄(からか)われていました。

これは自分の生い立ちにも大いに関わっていたと思います。私は十人兄妹。それも上から六番目。

と言う事は大袈裟に言うならば上からの圧力や、下からの突き上げに常に曝され続けの成長期だったという事。

その後、還暦を過ぎ、今後そうそう友達も増えることはあるまい、そう思っていたのでしたが、とんでもない!

その頃から、私の持ち芸《逆さ歌》がらみで出来た友人の数は若かった頃を遥かに凌ぐ勢いで増えていったのです。

例えばある番組でお世話になる時も、仕事が一段落ついてしまうとディレクターさん達の間で雑談が始まる。お互いの趣味とか家族とかの話題になるのです。

その輪の中に入って《ふむふむ》と頷きながら、聴き入っていた私。

ところがこれが意外と発展して、つまり仕事とは離れて個人的な話題に拡がってゆく。しかもそれがキッカケでその後もお仕事以外でのお付き合いがずっと続く…そういうケースがよくありました。

それがあっという間に十年二十年続いて今日までに至っているという方も少なくありません。

つまりそれは年賀状の枚数にも当然関わって来ている訳で、それが増えてくるのは当然といえば当然。

でも、そのおかげで私の人生何かにつけ楽しさを頂けたことは確かです。幸せでした。

でもこの歳です。さすがに年賀状は減らしてゆかなくては!そう思い始めて来た昨今なのです。

それと言うのも私は《印刷》のみの年賀状にとても抵抗があって、せめてオモテ書き、つまり宛名は必ず毛筆で書く、ということを実行してきました。

若い頃にはむしろ楽しかった筆書きですがさすがにこの歳ともなると、手の震え、それにも勝る目のショボつき…書き損じ。

そうなると一枚でも減らしていきたくなるのは当然です。

そこで考えたのが、《年賀状を先方から先に出して下さった方のみ、お出しする》という作戦。

これ、思った以上に効果がありました。忽ち枚数は三分の二以下に減ってしまったのです。

これから先はお友達もそう増える事はあるまい。従って年賀状の枚数も減り続けて当然。そんな風に思っていました。

ところがこの七月の末、《戦前の台湾生まれを囲む会》というのが日本橋で開催され、私と、もうひと方、同世代の男性とが講演にお声掛け頂いたのです。それこそ台湾顔負けの暑い日でしたが出掛けて行きました。

もうひと方のその講演者ですが、同世代…と言う事はつまり九十三歳、私の周りで現在その歳になる方は同期生でも殆ど最近お目にかかっていないのですが、その方はまさに矍鑠(かくしゃく) !

最近は台湾時代の回顧録なども記されておいでとか。

通っていた小学校が別だったので当時住まいは近かったはずなのに、幼い頃は知り合う術もなく、お互い今になって「僕たち、幼い頃きっとどこかですれ違ってたに違いないですよね」などと仰ったり。

ユーモアにも満ちた、天真爛漫なご性格とお見受けしました。  

なんと所属していた会社が明治製菓、あの超人気のお菓子《キノコの山》の発案者でいらしたのです!道理でお話ししていてもどこかに少年っぽさが…。

《友達は人生の宝物である》よく聴かれる言葉です。

私は思いました。

少々遅すぎたかもしれませんが、幼少期、絶対どこかですれ違っていたはずの私達。いい友人との出会いを神様に感謝しなくては。

私の年賀状、来年から確実に一枚増える事になりそうです。