4月26日、霞ヶ関・イイノホールで開催された第54回NHK講談大会に出演。この日の模様はEテレにて全国放送。年に一度、歌でいえば紅白という歴史ある番組で、公開収録の客席の抽選は15倍の倍率に。私は新真打紹介で出演して以来十年ぶり。前座の頃、亡き師匠一鶴の鞄持ちとして毎年伺っていた大会への出場は、光栄の至りだった。読み物は「高野長英水沢村の別れ」。亡き師匠が得意だった演目で、調べると、講談大会では長英伝を二度も口演していて、思い入れの強い一席だったことが改めてわかった。私も東日本大震災の後、東北ゆかりの題材をと演じ始めてから十数年、長英の故郷奥州水沢に何度も足を運び、取材を重ねて台本を肉付け、演芸場はもとより全国各地での講談会など、ことあるごとに高座にかけ、自分にとっては一番のネタ、最も大事な売り物に育ててきた。
3月初め、一通の葉書が。高野長英顕彰会会長、今野健さんの奥様・恵美子さんからで、「昨年10 月に夫は亡くなりました」という悲しい報せ。今野先生には、水沢での長英伝口演の機会をもらい、潜伏生活を送った長英の足跡を訪ねる旅にも同行。ご自宅に泊めていただいたことも懐かしい。顕彰会設立五十年記念誌には、私の長英伝の講談速記録も掲載された。コロナもあって、しばらく疎遠となっていたが、その時期から闘病をされていたという。NHKから演題を聞かれて、高野長英を選んだのは、全国放送ゆえ、今野先生やお世話になった水沢の皆さんに、きっと見ていただけるとの思いからだった。
やはり前座時代から面識のある水谷彰宏アナウンサーが司会で、人間国宝の神田松鯉先生など六人が出演。普段より短い持ち時間、十四分の中で、聞き所となる長英が江戸までの道中付けや、水沢の母との再会の場に、わかりやすい解説も加えてみたい。今まで集めた資料の他、さらに書籍を買い揃え読み込むと、今野先生と顕彰会の皆さんの、これまでのご苦労と情熱を再認識。当日は、NHKスタッフの皆さんが作る最高の舞台で、良い一席に仕上がった。楽屋は神田伯山君や弟弟子の宝井琴凌らと和気藹々、楽しいひとときを過ごした。
NHKからはさらに「ラジオ深夜便」のご依頼が。最近力を入れている新作講談「尾崎行雄伝」を吹き込む。学生時代によく聞いていた深夜便で、自分の声が聞こえてくるというのは、この上ない嬉しさがある。505スタジオで無観客収録だったが、懸命につとめた。福沢諭吉に推挙された尾崎行雄は二十代で新潟新聞の主筆を任された。その後継の新潟日報を読み、尾崎に憧れ政治家を夢見たというのが、刈羽郡二田村の田中角栄少年だった。
5月29日、横浜にぎわい座で開催した「講談・浪曲で綴る昭和百年」。日本浪曲協会と講談協会の初めての合同公演で、浪曲側は千葉ゆかりの浪曲師・東家一太郎君、講談側は私が担当者として企画立案から携わった。昭和を舞台とした講談と浪曲が交互に六席。テーブル掛けなどを使う浪曲の高座と、机を設置する講談の設えが異なるため、舞台転換の際には幕前で時間をつなぐ必要があり、私と一太郎君で司会役を務めた。
私は田中角栄伝を創作、初演した。昭和47年に田中内閣が発足。空前の角栄ブームの頃、亡き師匠自身も大ブレイク。週刊誌の角栄特集号には田辺一鶴の「田中角栄一代記」が掲載され、放送等でも演じた。その台本も参考にしつつ、一から原稿を書いた。膨大な角栄本の中から百冊ほどを選び、図書館で借りたり古書を購入。八幡山の大宅壮一文庫に行くと、所蔵されている角栄関連の雑誌記事もまた膨大で、今回は、生い立ちから総理になる頃までの記事に絞って複写を依頼。それでも二日間かかり、コピー代は数万円に上った。そもそも、大宅文庫に初めて連れてきてくれたのは亡き師匠。「ここで新作の材料を探すんだよ」と教えてくれた。あれから二十数年、年に数回通い続けているが、忘れ去られた週刊誌の、見落としがちな小さな記事が、お客に喜んでもらえる講談の、大きな素となったことが何度もあった。講談で吃音矯正をした一鶴。角栄は講談雑誌を大声で読んで吃音を克服、政治の本より講談本を愛読した。また、浪曲を演じる事で、聞く人を喜ばす話芸を会得、大衆の心を掴んだ。浪曲協会顧問を八年間務めるなど、浪曲界との交流も多く、「田中角栄浪曲との出会い」という講談にまとめた。お客様はもとより浪曲協会の方からも「よかったですよ」とのお声が。布目英一にぎわい座館長との出会いは、私がまだチビ鶴だった少年時代。演芸評論家で芸術祭審査員も務め、数十年間、毎日多くの演芸を聞いていらっしゃる館長が、「客の拍手は正直、真打として自信を持っていいよ」と声を掛けて下さった。今後の芸能人生の支えとなる励ましの言葉に感激。桜木町を後にした。
田辺鶴遊(たなべかくゆう)
名古屋生まれ静岡育ちの講談家。芸能社を営む父のもと2歳で芸能活動を開始。昭和61年、東京初舞台は浪曲席の浅草・木馬亭。8歳でヒゲの講談師・田辺一鶴に師事、「チビ鶴」の芸名で上野・本牧亭で初高座。東海大学大学院政治学研究科中退後、講談協会にて前座修業開始。平成21年に師匠没後は、宝井琴梅門下へ。同27年真打昇進し「田辺鶴遊」を襲名。昨年は、横浜にぎわい座芸能ホールにて初の独演会を開催、後藤新平の孫をゲストに「後藤新平伝」を口演し話題に。朝日新聞千葉版の読者投稿文芸欄「千葉笑い」五代目選者。日テレニュースエブリィのナレーションも好評。