KIRACO(きらこ)

Vol149 自己紹介に代えて

2021年7月7日

独断独語独り言

Vol149 自己紹介に代えて

1958年(昭和33年戌年)生まれ。出生地 静岡県浜松市。比較的転勤の多い仕事をしていた父は私の誕生前後、浜松支局勤務だった。それ以前が宇都宮で、寒がりの母は温暖な浜松への転勤が嬉しかったという。

その後本社勤務になり、生後半年で転居の日、ご近所の方々が「結構なお日和で」「いいお天気で何よりですね」と一様に晴れ晴れと挨拶して下さったそうだ。若かった母は、確かに引っ越しに好天は好都合ではあるけれど、口を揃えて大変な慶事の如く祝ってくれるのを、どこか腑に落ちない気もしつつ、にこやかに応対していたという。実はなんとその日は現上皇陛下のご成婚の日だったそうだ。

生まれの干支がどれだけ人の生に影響を及ぼすのか不明だ。が、戌年生まれの私は牧羊犬(夫はヒツジ年)、探索犬(靴下片方から定位置に置いたはずが行方不明の家の鍵まで、ネバーギブアップで探し出す)、番犬(怪しい勧誘はきっと追い返す)として立派に務めを果たしている。

児童文学のような幼年時代の記憶は埼玉県所沢市(生後半年から5歳まで)。

就学前年から船橋市高根台在住。小学校の校歌「雑木の林 松の森 果てなく続く習志野の 空を支えて高層の建物光る新市街」は未だに空で歌える。けれどこの歌詞の風景はどこへ行ってしまったのだろう。今時エレベーターもない四階建の集合住宅を高層とは呼ばない。中学の校歌、西空遠く置かれた富士の威容も小さくなった。けれど歴史の証言とも言える懐かしい校歌にはいつまでもそのまま残って欲しいと願っている。

中学卒業まで私の世界は、朝家の門を出て左へ、夕方帰宅するまで右の世界とはほとんど縁がなかった。

それだけ今思うと日本の学校の一日は長く、一週間も長かった。

義務教育終了後、活動は門から右へ駅へ続く道に限られ、逆に左の世界とは限りなく縁が薄くなった。

人生の「越境」は常に習志野市、津田沼乗り換えから始まった。電車通学になることで、当時のほとんどの子供はそこで初めて腕時計を買ってもらった。それは次第に親元から自立し、社会の構成員になるための一歩だった。

羽田がハブ空港になる数年前まで成田から乗り換える京成津田沼駅は実感の伴った実家への玄関口であり、その後も空港リムジンバスへの乗降駅となった。そして今ご縁の生まれた「きらこ誌」は習志野市のタウン誌だ。長い長い環状線に乗って一周してきたようで、感無量である。

(当時は国鉄)東船橋駅、高校在学中にこの「新駅」があったならどんなに楽だったのだろう。県立船橋高校は停車中の車窓から直線最短距離に見える。改めて調べると昭和56年に『請願駅』として開業されたという。ということは、センター競馬場駅という、女子高校生には些か不似合いな名称の駅で乗降していた私たちは良い子過ぎ、その控えめなお願いは天に届かなかったのだろう。今では絶対辿れないと自信のある通学路は、住宅街を異様に曲がりくねり延々と続いていた。

その後、昭和53年から総武線を更に上り、停車駅が増えただけ寧ろ無用の長物となった(失礼…)東船橋駅、そして船校の懐かしい天体望遠鏡「ウルトラマンの頭」を左手に眺めながら四ツ谷の上智大学へ通った。ここがまたドイツに所縁ある学府であった。

小学校時代、大好きだった知能検査には、確か「迷路」があったと記憶している。あれはゴールから逆に辿るとあっけないくらい先が見えるものだ。人生も来し方を振り返れば、なるべくしてなった、と納得のいく伏線がいくらでもある。自己紹介で簡潔に書くつもりが長々となってしまったのは、ここに至るまでの因果があちらこちらに垣間見えてくるからである。

ご笑覧に感謝。

小学校時代、大好き

袖振り合うも多生の縁

微睡から目覚めた瞬間のように、ふと、なぜ私はここにいるのだろうと、不思議に思うことがある。酔生夢死の半生、といったところか。妙に地に足が着いていない気がするのだ。

幼い頃、私にはなんと、ドイツとインドの区別がついていなかった。

だって、どちらも「ド」と「イ」がついて、カタカナ三文字だもん。その私がこれまでの半生以上、三十余年もの間、家庭を持ち、二児の母となり、仕事をし、ここにこうして暮らしているのだ。これはもう胡蝶の夢どころか、おっちょこちょいの夢というべき事態だろう。

勿論、今ではドイツとインドの違いをちゃんと理解している。何しろ、二世帯住宅の我が家の下の住居にはインド人の若夫婦が暮らしているのだ。不思議なものである。

おそらく普通の大人でドイツという国名を知らない人はいないだろう。しかし、正確に地球のどのあたりにあり、どのような国であるのか、その実態を知る人はどれだけいるのだろう。見知らぬもの同士の知識と誤解はお互い様である。一昔前まではテレビで観た、は「この目で見た」に等しい意味を持った。今はネットで見た、というところだろう。しかしどんな場合も「噂」と「実態」とはかなりかけ離れたものである。どんな情報も「発信者の独断と偏見にすぎない」のだ。この度ご縁を得て徒然なるままに誌面をお借りすることになった。生活の本拠地になっているドイツについて、「私のドイツ」を報告させていただこうと思う。普遍的な事実とは決して言わない。主観という色眼鏡を通した「独断に満ち偏屈な私のドイツ」だ。

ところでインドとドイツの区別がつかない、というのは何も幼児に限ったことではなかった。私がドイツに留学すると決めたとき、若い仲間に「何でインドなんか行くんだよ」と不満そうに言われた。何で、と言われても微妙な年頃にとってなかなか説明し難い理由はあったと思うが、取り敢えず「いや、インドじゃなくてドイツ」とだけは念を押した。社会人になってからである。中型自動二輪の免許を取るため教習所に通っていた頃、その縁での友人である。何の関係もなさそうに見えるが、自動二輪の免許取得もその後の様々な出会いに関わってくる。

この機会に改めて過去をなぞると、人生はこの「多生の縁」で阿弥陀籤のように進んでいくのだと、思わされる。どこで、何をきっかけにどんな道を歩むことになるか、全て八方に繋がる網の目の縁を辿ってきたようなものだ。合縁奇縁腐れ縁、どんなものでもそれらが今の自分を成すものなのだ。

なぜドイツ

水温むこの頃、庭の池に金魚がゆったり泳ぐのが見える。空の青を映す水面に赤い背を見せる姿を見るたび思い出す光景がある。懐かしく、そして今でもちょっと切なく胸が疼く。

そもそもドイツとインドの違いがよくわからなかったような子供がなぜ今、ドイツで暮らしているのか。この「何故」の迷路をスタートに向かって遡ると、そのときには見えなかった道標があったのだと思えてくる。

恐らく一番大きく航路の舵を切ったのは大学4年のときの就職活動だろう。活動などという立派なことはしていないのだが。

当時の上智大学の就職相談室には大変有名な室長がいた。が、実は私は敷居を跨いだことがない。別に避けていたわけでもなく、単に思いつかなかったのだ。しかし人様に誇れるような特技も成績も持ち合わせず、巷で噂される「語学の上智」とは、はてどこの大学だろう、というほど英語も中学時代取得の英検3級を超えたものではなかった。仮に相談しても箸にも棒にもかからなかっただろう。私は謙虚な人間なのだ。

私は自分を大変生真面目な人間と思っているが、基本的にどこか素っ頓狂である。唯一の「自主活動」として大好きな絵本作家の作品を扱う出版社に宛て、一方的に履歴書と就職希望の旨を送りつけた。

そもそも採用予定の有無を調べることが肝心だ、とは考えもしなかった。だって行きたかったんだもん。暫くして電話を戴いた。

「今、人員足りているんだけど、よかったら遊びに来てね」と言われ、スーツを着込み、総武線から中央線に乗り会社訪問に出かけた。

普通のマンションの、多分二部屋ほどの「会社」だった。至極のんびりした雰囲気のオジさん二人に迎えられた。真剣にトランプをしていて「今、誰がお茶菓子買いに行くか決めるから、ちょっと待っててね」と言われ、行儀良く椅子に腰掛け勝負の行く末を見守らせて戴いた。

「面接」では私の大好きな作家について『哲学者だよねぇ。で、あの人麻雀凄く強いんだよ』という情報を得た。

次のテーマは「夕方からそこの神社でお祭りあるから一緒に行こ」だった。

私は素直な人間なのだ。スーツにパンプスで勿論ご同行した。先ずは腹ごしらえにラーメン食べ行こう、となった。次のセリフは、ほろ酔い気分の「オォ金魚すくいだ、これ娘、金魚掬いをしなさい」だった。

私は素直に金魚を掬った。夢現つのような「会社訪問」を終え、中央線に乗ってから、初めて困惑した。家には池どころか金魚鉢もない。ドラマに出てくる、酔ったお父さんが家族へ寿司折を持って帰る姿だな、これは、と思いながら沈思黙考途方にくれた。

そうだ、水道橋の駅のホームには金魚の水槽があった。電車がホームに滑り込みドアが開くやいなや、駅員さんに突進した。「お願いしますっ!金魚もらってくださいっ!」

あれは夢の出来事だったのかもしれない、と思った頃に再び電話を戴いた。

「一人欠員が出たんだけど、来ませんか?」やっぱり夢だったんだ。夢のような話だった。私はあの絵本作家の作品が大好きで、既にあの小さな出版社と、あのお兄さんたちが大好きになっていたのだった。

オジさんたちはその電話で一気にお兄さんに昇格した。ここで夢を現実にしていたら絶対私は今ここにいなかっただろう。けれど電話はほんの数日遅かったのだ。

すでに断れないでフツーの会社に採用が決まっていた。私一人ならすべてを捨ててでも金魚の縁を掬いとっただろう。

結局入社したところは業界トップではないにしても大手に数えられるところで、我武者羅に一流を目指していた。その一環なのだろう、海外留学休職制度というのがあった。そう、それさえなければ決して25歳の決意などなかった筈なのだ。今こうしてドイツにいるはずはなかったのだ。

ベランダから池の金魚をぼんやり眺めていると、今でも駅員さんの「有難うございまっす!」という声が耳朶に響き、再び電車に飛び乗り振り向いた瞬間に見えた、白い手袋をした駅員さんの挙手する姿が残像となって水面に映る気がする。

微妙にコンプレックス

薩摩生まれの祖母は、ヅとズの発音は明確に違うと言っていた。祖母の名前は「シズ」であった、と思う。いささか心もとない言い方になってしまうのが孫として情けない。祖母は常々「今の人は違いがわからない」と不満を口にしていた。で、結局「シズ」であったのか「シヅ」なのか判らないまま平成4年祖母は93歳で大往生した。のどかな話だが公的文書でも時々で違っていたような気もする。

中央から遠ざかるほど古い言葉は残るという。室町時代には「ジ、ズ」と「ヂ、ヅ」の音は区別して発音されていたらしい。

最近どこかで『日本語は世界でも最も音素の少ない言語のひとつであり、一番少ないのはブラジルのピダハン語』と読んだ。音素の数え方には諸説があるそうだが、英語46、ドイツ語41、日本語は20という説がある。さらに人間の脳はおよそ三歳までに「意味ある音声」と「雑音」とをふるい分けるフィルターを完成させるのだと聞いたことがある。これらのデータからもう開き直りに近い心境に達した。もういい、所詮無理なんだから、と。

普段会話ではテキトーに流している言葉をいざ、文字にしようとすると自分のいい加減さに嫌になる。夫に尋ねると『聞こえる通りに書けばいいじゃない』と、何の助けにもならないアドバイスが返ってくる。それができれば訊かないのに。

これから趣味の外国語を学ぼうという方にはイタリア語をお勧めする。

子供が生まれる前だから30年も前の話だ。暇に任せて市民講座でイタリア語初級に登録した。言葉の終わりが母音で終わる心地よさ、ドイツ人には超苦手のジャ、ジュ、ジョの音がふんだんにちりばめられ、みみっちい話、しばし優越感に浸り、傷ついた自尊心が慰められた。

どなたかも言っていた。勉強の甲斐があるのは何と言ってもイタリア語。彼らはほんの片言でも大仰に大喜びして褒めそやしてくれる。それが英語だとできて当たり前、一生懸命になっても「まともに喋れないやつ」に過ぎない、と。これはもう私も体験済みである。語学学校でもイタリア人の話すドイツ語にはとっても親近感がもてた。

知識の量、話題の豊富さは自ずと教養の深さを物語る。もの知らず、と思われるのは悲しい。ドイツ語はそれでも比較的読み書きの楽な言語で、多少の独特な規則を覚えればローマ字読みでそのまま「音読」はできる。カタカナ言葉でもある程度通じてしまう。

屈辱的に理解不能なのがフランスと、なんとお隣の中国、韓国の人名、地名なのだ。普段漢字表記を日本語読みしているのだから、原語に近い発音で言われて分かるはずがない。

いい歳の大人で毛沢東、孔子、老子を知らないと思われるのでは、もう悲哀を通り越した絶望感に襲われる。私にとっては漢字で書かれたモータクトーでありコーシ、ローシなのだ。これをマオ テ・トゥングとかコンフーツェ、ラオテのように言われては一体何の話だろう、と思う。話の前後の脈絡から必死に頭をひねり、初めてなるほど、と理解した時にはどっと疲れが出る。マオ、ラオはまだ想像がつくとして、フランスの人名にはお手上げだ。

アラン・ドロンもルノアールも、ゴーギャンも通じないと悲劇である。

有名なベルリンの料理に「アイスバイン」がある。これは塩漬け豚の脚を茹でた料理。アイスは氷、バインは脚、骨の意味。由来には諸説あるようだが一般に言われるのは「昔は豚の脛の骨をスケートのブレードにしたため。」

そしてもう一つが「アイスヴァイン」。自然凍結されたブドウの実だけで造られる極甘口のワイン。素直にワインと言ってしまえば無難なのだが、なまじドイツ語風にバインと言ってしまうと前述の茹で豚がドンと供される。それも「いったい何人分」というほどの量が。

またドイツを旅する人に必須の単語にヴルストがある。これはソーセージ。ブルストというと胸になる。

今の漫画は「あ、え」という本来濁点のつかないものに、濁点を付けて独特の音声を表現する。これがまた効果満点。読めない人はいないだろう。ならばいっそこと、擬声語のため、室町以前の表記を復活させたどうだろう。失われた子音がたくさん蘇り、日本人の外国語コンプレックスも緩和されるのでは。

国語審議会、文科省の先生方にお願いしたい。少なくとも抹消された「ヴ」の表記を復活させていただけないものだろうか。この「ヴ」があるだけでかなり理解の幅が広がるだろうに。

(次号つづく)