「私の名前 大切にしていきたい」
今朝の朝刊の投書欄に、女子高校生からのこんなタイトルの投書が載っていました。如何にも今風の、当て字を連ねたキラキラネーム。でもその子は「読み方を間違えられたりしてだんだん嫌いになって来ていましたが、聞かれたことで会話が弾むこともあるし、両親がつけてくれたこの名前を大切にしていきたいです」そんな風に結ばれていました。
確かに名前というのは付けられたら最後、一生ついて回るもの。第一、こんな名前イヤだと拒否出来るワケはありませんし、物心ついたときにはすでにその名はその人に定着してしまっている。
ですから名前を付ける…つまり名付け親になるということはよくよく重大な責任を請け負う、ということになります。
私自身、これまで孫や曾孫を含め五人の名前をつけてきました。それぞれに愛情を込め、何よりその子の幸せを念じながら。
ところが…そんな重大な『名付け親』に、実はこの私、なんと小学校四年生の時、すでになってしまっていたのです。
それは太平洋戦争が勃発する以前のこと。ある日学校から帰ると母がせっせとミシンを踏んでいます。縫っていたのは小さな可愛いらしい服。
「秋になったらね、赤ちゃんが生まれるのよ!」弾んだような母の声です。
当時私たちは台湾の台北市に住んでいて、その頃は暮らしにもまだゆとりがあり、この直後戦争ですべての生活がひっくり返ることになるなんて想像も出来なかった時代でした。
妹が生まれた朝、私は父の乗った『人ト ーシャー力車』の足台の小さなスペースにちょこんと乗っかって、お土産に買った『ビスコ』の大きな缶を落とさないよう、しっかり抱え、産院に向かっていました。その時の父の幸せそうな横顔までなぜか今も鮮明に浮かんでくるのです。
私はご機嫌でした。何故ならその前日、生まれたのが女の子、と分かった時、父が幾つもの名前を書き並べて迷っているのを傍で見ていた私が、
「よっちゃんの、一年生のときの先生と同じ名前つけてほしいんだけど!」と、ねだったのです。
それはその場の思い付きではなく、その若い先生の優しさ、美しさ。なによりも私に歌うことの喜びを教えて下さった大好きな先生でしたから。当時、台北放送局から台湾全島に私の歌う歌が流れたりした・・・、そんな嬉しい機会も作って下さったその先生のことは父もよく知っていたのです。「じゃあそうしようかな!」と。
それが私の「名付け親歴 第一号」だったというわけです。
私より十歳年下のその妹は今も広島に住み、大勢の孫やひ孫に囲まれて、時には山に登ったりするほど元気で幸せな日々を送っています。
ところが…それは今から三- 四年くらい前だったでしょうか。私はこの妹から思いもよらぬ質問を投げかけられて、本当に驚きました。
普段から明るい、開けっぴろげの妹なのに、その時は何時になく思い詰めたような表情で、
「私の名前ねえ、よっちゃんに付けてもらったのは知ってたけど、他のみんなはお父ちゃんにつけてもらったんでしょう?私のこと、お父ちゃんはあんまり可愛くなかったのかなあ?」
そんなことを言うのです。もう唖然…としか言いようがありませんでした。そうだったのか・・・妹は誰にも言えず心の中でそんな疑問と葛藤を繰り返しながら今日の日まで過ごして来たのかも知れない。
まさか自分のした事がこんなにも妹を苛さいなんでいたなんて!
その後、当時の父や母の様子を話し伝えたことで妹の心の蔭りは一掃され、本来の明るい「志津子ちゃん」の笑顔が戻ったのは、言うまでもありません。
翻ひるがえって私自身は・・・?といえば、「芳子」という、このありきたりの名前、大満足なのです。自分が普通の女の子と何処か違う、という事は、子供のころからずっと意識していました。喧嘩っぱやくて何でも一番でなければガマンならない、激しい気性の子でした。
なので(芳子)というこの平凡な柔らかい感じのこの名前、実は今でも私にとっては「隠かくれ蓑みの」みたいなもの。これから先もずっと、この私をカムフラージュしてくれそう・・・そんな気がしてならないのです。