高座で口演中、声が出なくなるなど、長年、咳と声がれに苦しんできた。平成30年夏、新小岩駅からバスで十分程のT内科で、ぜん息と診断された。以来、月に一度は必ず同病院へ通うように。吸入薬使用で咳の症状をコントロールでき、仕事中に声がかれるような事は、ここ数年ほぼ無くなった。
ところが七月の後半、どういうわけか突然、ぜん息の大きな発作なのか、咳が酷くなり、声を出し難くなってしまった。月末の講談定席では主任(トリ)を務める事になっていた。さらに、生まれ故郷の名古屋が題材の「星野勘左衛門」を初演すると、チラシに発表していた事もあり、代演を頼まずに上野広小路亭へ出演。声を抑えながらではあったが、一時間の高座を終える事が出来た。ここで「声がでる」と、少し安心したのがいけなかった。
八月最初のお仕事は、日本テレビ「ニュースエブリィ」のナレーション録り。「入るのに勇気がいる店」という特集。声が本調子でない事を、プロデューサーにご連絡するべきか直前まで悩んだが、検査は陰性で熱も無い。やっといただけたお仕事・・との思いから、収録へ。しかし、スタジオへ入って程なく、ほとんど声が出なくなるという最悪の事態に。一本のVTRの完成までには、取材をするお店選びから、撮影、編集、台本作り、たくさんのスタッフで会議を重ね、手間暇かけて制作。最後に、命を吹き込むのがナレーションだとわかっていたはずなのだが・・、他の誰かに仕事を渡したくないという思いが、先走ってしまったのだ。しかし、マイクを前に後悔している場合ではない。声をしぼり出し、原稿を読み続けて、根気強いスタッフの皆さんの協力もあり、何とか収録を終えるに至った。自らの心の弱さから、迷惑をかけてしまったと反省をしている。私は、個人で活動している芸能家だが、この時ばかりは、相談を聞いてくれるようなマネージャーが居たならばとも思った。
いつものT内科で、より強力な吸入薬を処方されたが、半月たっても症状の改善が見られない。このまま声が出なければ、講談稼業も廃業かと、心底落ち込みもしたが、声の治療の権威が月島にいるとネットで発見。最後の頼みの綱と訪れたのが大築耳鼻咽喉科。すると、「こんな強い吸入薬を使っていたら、声がつぶれてしまうよ。次の出番は三日後?よし、声が出るように別の吸入を処方しよう、しばらくお酒は我慢ね」という診察。大築先生の言葉を信じて断酒を決意。新しい薬と吸入器を鞄に詰めて、知多半島へと向かった。
愛知県常滑市大野町の宿「恩波楼」での講談会。明治14年、愛知県病院長だった後藤新平は、県庁職員の保養施設設置の調査の為、熱田から船で大野湊へ。宿の主人・平野助三郎の案内で、大野の海で古くから行われていた潮湯治、つまりは海水浴を体験。伊勢湾の対岸、鈴鹿の山々を望む絶景と空気の良さに加え、太古の昔から浜に湧く、大野谷湧水と混じり合うことで、この浜の海水成分は効果が増している事を調査、確認した。新平は翌年、初の著書「海水効用論」で、海水浴の効能を広く紹介した。その後、恩波楼は県の保養所に指定、大野は世界最古の海水浴場として売り出した。そもそも調査を命じたのは時の愛知県令(知事)・国貞廉平。国貞県令は恩波楼に頻繁に宿泊。海を眺め、酒を飲み、読書をして漢詩を認めた。国貞は在任中の明治18年、肺炎で亡くなっている。医師・後藤新平の進言を聞き入れ、大野を保養所とした県令は、実は肺を患っていたのだ。大野を訪れたのは、病に悩み、まさに、溺れる者は藁をも掴む思いだった。明治23年、大野を愛した亡き県令閣下に感謝を込めて地元有志が建立した石碑は、今も大野海水浴場の片隅に。そこには「呼吸千里」の四文字。呼吸に良い里、つまり大野村のことだと、現主人の加藤勝彦氏は言う。
さて、呼吸千里の宿で口演した「後藤新平伝」は、一時間の長講も何のその、驚くほどに声が戻ってきた。これは大築先生のおかげ。さらに喉を治したいものと恩波楼に数日居残って、後藤新平式に海水浴を敢行。海中に大野湧水の湧く地点を足下で体感出来た。
爪トレーナーの喜田宏美さんは平野助三郎の玄孫。講談会の後、「ウチの離れに、後藤新平が居たんですよ」「是非、見学させて下さい!」平野家の屋敷内に建つ離れは、大正11年、新平が四十年ぶりに大野を訪れた際、立身出世を果たした新平を迎えるため、助三郎がわざわざ新築をした。代々庄屋の平野家は、歴代将軍も滞在。父・正巳さんは、徳川秀忠の書状を広げて下さった。図らずも、大野町史にも載る、土地を代表する宝を直に拝見出来た。これらの体験も良い薬になったか、九月には喉が完全に回復。収録はもとより、初出演の白井講談会でも大ハッスル。海水浴の如く、浮き沈みを経験した暑~い夏だった。(九月三十日記す)