KIRACO(きらこ)

Vol167 四年ぶりに北の大地へ

2024年5月9日

一鶴遺産

5月後半から6月にかけて北海道を巡業する。令和2年4月にも北海道ツアーを予定していたが、コロナの感染拡大を受け、全公演が中止に追い込まれた。あれから四年、声を掛けてくれたのは函館の講談師・荒到夢形(こうとうむけい)こと荒井到さん。北海道は落語を中心にアマチュア演芸が盛んな土地柄。夢形さんは、道南落語クラブに所属しながらも講談で孤軍奮闘。地元函館にまつわる新作講談を数多く手がけて講談会を多数開催。「函館で講談といえば夢形さんのこと」というくらいに知られる存在になった。私がかつて乗車していた、はとバスの「講談師と行くツアー」に、夢形さんが参加されたのが初めての出会い。以来、私を函館に何度も呼んで下さるようになり、私は老後の移住を考える程、函館という町のとりこになった。他ならぬ夢形さん自身も、コロナで活動に大打撃を受けたが、やっと私の面倒を見られるくらいまで、状況が回復したということなのだろう。

先日、近所を歩いていると町内の掲示板に目がとまった。「今は家から出ないで!」という江戸川区からの告知が、張り出されたままになっていた。思わず吹き出してしまったが、わずかに四年前の出来事。皆、当時は真剣に、政府の言う事を聞き自粛生活を送っていた。今となっては、一体何の権限があって、区が人間の行動を制限していたのだろうとか、我々、演芸場など実演の世界や飲食業界が、何故あれほど目の敵にされなければならなかったのだろうとも思う。全ての仕事を無くし、様々な給付金を申請して食いつないだ。余程思い出したくない時期だったのか、あの数年の事は、あまり記憶に残っていない。

札幌・ススキノに店を構える「かど屋」は鰻の名店。新道弘次社長と面識を得たのは二ツ目の頃、全国の鰻屋さんが加盟する「うなぎ百選会」の東京・日本橋での研修会に余興で出演した時だった。かど屋の店内や、系列のかに料理店「氷雪の門」の広間で、うな重付き講談会を開催して下さるようになった。「せっかく北海道に来るのだから、ウチ以外にも、いろんな店で講談をやりなよ」と、札幌市内の他、道内あちこちで公演出来るようになったのは、太っ腹な新道さんのおかげ。社長は、浅草で開かれた私の真打昇進パーティにも飛行機で駆けつけてくれた。「久々に北海道へ参ります」と新道さんにお電話すると、翌日、第一回の講談会から担当して下さっていた八巻直宏さんから「是非やりましょう!」との返事が。四年前に、講談会中止の連絡を頂いたのも八巻さんで、当時、「飲食業も大変なんです」という話だったから、八巻さんの明るいお声を聞けたのは何より嬉しく、ほっとする思いがした。八巻さんは、いまではかど屋の店長とご出世なさっている。

市川にお住まいだった演芸評論家・故小島貞二先生が創設した笑文芸サークル「有遊会」の古参メンバーで、船橋在住の加藤修弘さんは、どこの講談会にも顔を出して下さる方で、大のお酒好き。付き合いも良く、明るい加藤さんだけに各地に友人が多い。加藤さんにご紹介頂いたのが、新千歳空港をはじめ、全国に「弟子屈ラーメン」をチェーン展開する菅原憲一さん。菅原社長のお店で、蕎麦と豚丼が売りの「北堂」でも、かつて講談会を開いて頂いた。加藤さんはもちろん、道内各地から社長のお仲間が集まった。社長がかねてから贔屓にしている、札幌在住の三味線弾き・こうの紫師匠も出演、ご協力下さった。今回も菅原社長に相談すると、二つ返事で「いいよ」という心強いお言葉。しかも、仲間うちで盛り上がったとかで、実行委員会まで立ち上がった。今回も紫師匠とご一緒に、題して「EZOnoIKI(蝦夷の粋)第一回講談と三味線を聞く会」。あっという間にオシャレなチラシも出来上がり、ザ・ルーテルホールという大きな会場で開催の運びに。しかも、釈台まで作って下さるというからビックリ。思いもよらぬ大きなうねりにも驚いている。

旭川にある、旧岡田邸という歴史的建造物で蕎麦を提供する「おかだ紅雪庭」。代表理事の髙橋富士子さんは元々、新道社長からのご紹介。富士子さんの通う近所のカフェ「花みずき」の森田陽子さんがチケットを作って下さるなど、手作り講談会を何度も開いて頂いた。寅さん物まねの故原一平先生が歌った「三六街は北の町」は亡き師匠一鶴の作詞。岡田邸で終演後に皆さんと、そのサンロクへ旭川ラーメンを食べに行ったのは楽しい思い出。緊急事態宣言の合間、お江戸日本橋亭で開いた会に、旭川の富士子さんからお花が届いた時には、涙が出るほど嬉しかった。今回は、岡田邸の他、現在富士子さんが会長を務めている、旭川の経営者の集まりでも一席の機会を頂戴した。四年ぶりの北の大地。コロナには絶望させられたが、つくづく人生を諦めずに良かったと、今は、思っている。